▸▸▸ 前回も書いたように、

ずっとやってきたノートワークが、
「子どものこと」では
うまく機能せず、できなかった。
今回は、それについて考察してみます。
どの段階でつまづいたのか?
いつもやっている3ステップ。
① 気づく|問題ではなく根っこ部分を見る
② 認める|感覚を感じ思い込みを手放す
③ 受け入れる|仮説を立て一旦やってみる
今回特に難所だったのが、
【「〜すべき」「〜ねば」といった思い込みを疑い、もっともらしく聞こえる、正論を越える。】という、第二段階だった。
なぜなら、「自分はいいけど…子どもは…」
という気持ちがストップを掛けていたからだ。
自分一人だったら『べきねば』を手放すことはそんなには難しくはない。だって、私はもう大人だし、うまく立ち回ることもできるから。
でも、子どもは……?
それでもし傷つく目にあったら?
取り返しのつかないことになったら?
大丈夫だって保証はないんだよ。
本当にそれで正論を超えていいの?
「それって、子ども達を
巻き添えにしてるんじゃない?」
そう思うと、どうしても子どもと一緒に、『べきねば』や『正論』を越えることができなかった。
だってそれらは全て私にとって、安心な領域である『普通』の中にあるものだったから。
𓃠
越えられる根っこを見つけても、
越えることを許可できない。
着地しても大丈夫だと思える場所(正解)が
見つかったら越えることを許せるけど…
そんな風にどんどん根っこ…という名の〝本音〟を抑圧し続けると、第一段階である「問題ではなく根っこを見る」ことすらできなくなってきて、
最終的には、まんまと表面的な問題を追いかけ回しては対応し、また問題が起きる…というイタチごっこ状態になってしまっていた。笑
再度、本音と向き合い直した。
自分一人だったら、
『安心領域』である『普通』を超えて、
新しい『私の安心領域』に気軽に行ける。
でも、子どものこととなると、
子ども達を安全な場所の外に
連れ出してしまうようで怖かったし、
それで何かあったら、
どうしよう…と、不安だった。
もし、子ども達のかわいそうな姿を
見ることになったらと思うと……
耐えられる自信がない。絶対にやだ。
そんな、責任感や情、そして恐れが、ノートワークを機能させなかったのだろうなと、そんな風に思った。
そこから、
改めて〝自分〟に立ち返り、
『べきねば』や『正論』を越える決意をして、自分の根っこ(本音)と向き合い直した。
そして、(これまでと少し違うコツがいるけれど、)私一人じゃなく子どもと一緒に着地できる『新しい安心領域』を見つけることはできる。
ということも体験を通して分かってきて、第二段階をクリアすることができるようになってきた……ような気がする。
本音の奥にあった大本命
「本音を見つけても、越えられない」
↓
「どうせ見つけても採用できない」
↓
「本音を見ること自体を避けるようになる」
↓
「表面的な問題ばかり追いかける」
こういう仕組みになっていたのだと思う。
そしてその大きな要因は、一つ一つの根っこを見てばかりいて、全体の根っこを見ていなかった……こと。
まさに、『木を見て森を見ず』だ。
(これ…ちょいちょいなるんだよなぁ…笑笑)
一つ一つの根っこを見ていたのでは、見つからない。全体を見てようやく、「普通から抜け出すのが怖い」…という大本命の根っこが見えてくる。
「本音を見つけてしまったら、
普通から出なければ
ならなくなるかもしれない」
まあ…概ねここが、全体を見ること自体を難しくしたのだろうな。(わかるよ。わかるよ。怖いもんね。)
__と、そんな風に考察している現時点。
引き続きこれで上手く巡るか観測を続けます。
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#私はわたしとわたしする / 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟢𝟪𝟣𝟢

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