今年に入ってすぐの頃、
「特別困っているわけではないけれど、夫にもっと大事にされたい。」という…不満にも似た望みが吐き出された。
その気づきは、「そもそも私は夫が与えてくれているものを受け取れていない。なんなら…受け取ろうとすらしていなかった。」 という更なる気づきを与えてくれた。
そこから私の、「夫が与えてくれているものを積極的に受け取っていく訓練」 が始まったのですが、まぁ〜難しい。(笑) 箒や窓から見える景色には感謝ができるのに、どうして夫への感謝がこんなに出にくいのだろう…というくらい私の受け取りセンサーは錆びついていたのです。
その錆びつきを感じながら、毎日のように夫(オマケに子ども達)への感謝や良い所をノートに書き続けました。もちろん、書く行為によってこの錆びついたセンサーに本来のスムーズさを取り戻す為にこれに取り組んでいました。
𓅓
あれから3週間ほどが経ったここ最近、「夫の愛情表現と私が受け取ろうとしているモノが違うかもしれない。」 と、ふと…思い浮かんだ。
愛情の表現方法にもいくつかあり、どんな方法で表現したがるか、どんな方法で受け取りたがるかは人によって違う。親の愛情表現と子どもが求める愛情表現が食い違った場合、子どもは愛情を与えて貰えていないと勘違いしてしまうことがある。
確か…このような内容だったような気がするけれど、昔パーソナリティ障害を学んでいた時に、どこかで読んだことがあった記憶がある。詳しいことはわからないし、どうやってその方法を調べるのかもわからないけれど、これについて少し考えてみた。
𓅔
夫はまず言葉ではない。(笑)
愛情表現に限らず、言葉での表現はむしろ得意ではないようにすら思える。そう思うと…夫は圧倒的に「行動」 だろう。
夫はフットワークが軽い。めんどくさい…と言いながらなかなか始めない私と違ってサクサクと色んな行動を進めていく。こちらが頼んだことも、「オッケ〜」 くらいの軽さで、イラっとも不満にも思う隙もなくサラサラ〜とやれてしまう。
夫からしたら、私のようにダラダラとしてなかなか動かない人が不思議で仕方ないらしい。「やればいいだけやん?やったらすぐ終わるやん?」 って感じらしい。(笑)
詳しいことはわからないので断言できないが、夫が自然とする愛情表現の方法は〝行動〟なのかもしれない。
𓅓
自分がどんな方法で表現し、どんな方法で受け取りたがるのか。…自分のこととなると尚更わからないのだけど、夫の〝行動〟による愛情表現に気づいたことで一つ、感じたことがある。
私は〝態度〟をとても重視しているということだ。態度と言ってもどちらかと言うと〝姿勢〟という方がフィットするのかもしれない。
例えば夫は料理もよく作ってくれる。けれど、料理をする時スマホで好きな動画を見ながら作る。お笑い動画を見て笑いながら作ったり、ドラマを見ながら作ったりする。
私はその姿を見ると、「その行動には気持ちがない。」 と自動的に判断している。…ということに、気がついた。
あああああーーーーー!!!!!!
キターーーーーーーー!!!!!!
これですな!これですな!これが愛情表現のズレですな!!!と、大興奮しました。(笑) 夫からしたら、動画を見ながら作ることも動画を見ずに作ることも〝変わりなく〟愛情表現。
けれど、私はその〝行動に向かう姿勢〟に愛情を見ようとするから、姿勢が伴っていない行動には「愛がない」 という勝手な判断を下してしまっていた。
なんなら、いくらご飯を作ってくれても、ぞんざいに作られている気がしてむしろ、傷ついてしまう。…そう、私は夫の愛情表現である行動を見ると度々傷ついていたんだ…ということにも気づいたのです。
𓅔
これはやはり、認知の歪みの成せる技とでも言おうか…壮大な解釈の捻じ曲げゲームのよう。
行動に想いがこもってない=愛がない
ぞんざいな行動=愛してない
動画を見ながら料理をする=ぞんざい
それを私や子どもに食べさせてくれる
=愛してない。ぞんざいに扱われている。
私も子どもも大事にされてない。かわいそう。
こんな認知の歪みベースの連想ゲームが繰り広げられて、夫の愛情表現はことごとく打ち消され、むしろ「愛してない」という表現に変換されて私は受け取っていたのだ。
う〜ん、夫めちゃくちゃかわいそう。(笑)
申し訳なくなってきますね。ごめんよ夫。
夫の愛情表現である〝行動〟をそのまま真っ直ぐに受け取ろう。そこにたとえ〝姿勢〟が伴っていなくとも夫の愛や想いには変わりはないのだ。そして私がその〝姿勢〟という愛情表現を大事にすることも同じく、大事にしよう。愛情表現の方法も人それぞれなんだ。それでいいんだなぁ…と思ったのでした。
こうしてまた一つこんがらがった糸が解けて
「受け取り上手」へと近づけた気がします。
#私はわたしとわたしする / 𝟤𝟢𝟤𝟦𝟢𝟤𝟢𝟨

ことごと紡ぐ、

