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娘、問診などから小児科・発達外来の先生的には不安と感覚過敏がかなり強いため、エビリファイの服用を勧められていて…悩む。
本当に必要なんだろうか?そこまでなんだろうか?本当に安全なんだろうか?量は増えていかないか?薬を飲むことによって身体のバランスが崩れていかないか?__など、娘に薬を飲ませることへの抵抗がある。
私自身、抗不安薬やホルモン剤でこれまで色々あり大変な思いもしてきたので、どうしても慎重になってしまう。
娘の不安や感覚の過敏さは自分とよく似ている部分があるだけに、「飲んでこれが楽になるなら…」とも思うし、
食事や身体を含む環境調整、認知療法や感情ワークなど内側の環境調整をやりながら、自身の感受性(アンテナ)とうまく付き合っていくしかないのではないか……とも思う。
でも、娘の方が私よりずっと強いかもしれない。今まさに研ぎ澄まされすぎて、ヒリヒリと痛くて堪らない時かもしれない。薬を使うべきタイミングなのかもしれない。
そう思うと、「使わない」という決断にも踏み切れずにいる自分がいた。
6/22
少しの間、宙ぶらりんになっていたこのテーマについて、自分の中で立ち上がってきた感覚があったので言葉にしてみる。
あの時感じていた〝薬に対する強い抵抗感〟の中には、いくつかの要因があって、その内の一つはきっと小児科の先生に対する勝手な不信感だ。
私の中に、「本質的なこと以外はイヤ!本質的なことをやっている人じゃないとイヤ!」という、否定する気持ちがあった。
(本質的ってなんやねん?アンタはそんなに本質的なんか?…というツッコミは一旦ここでは置いておいてほしい。笑)
「薬を飲んで症状を抑え、根本的な所は見ようとしない。そんなの本質的じゃない。そんな風に薬を出すなんて、この人は信頼できない。」
そんな風に、先生を勝手に決めつけていた自分がいた。自分の考えや本音を伝えてもいないくせに、先生の考えや本音を聞いてもいないくせに、私は先生をジャッジし勝手に不信感を持っていたのだ。
「どうせ分かってもらえないし。」
そんな風に決めつけて、自分の考えや本音を言わない癖が私にはある。
心を開いていい相手かどうかを瞬時に勝手に決めつけすぐに心を閉じてしまう。『100%開くか100%閉じるか』という極端な人間関係での癖が強く出ていたのだ。
これは長年慣れ親しんできた癖だ。けれど今の私はもう、「人との関係は育むものである。」ということを知っている。
そして、「すべての人は本来、本質的である。」ということも知っている。ただそこに、そうではいられない事情がある場合もある…ということも知っているのだ。
だとするならば、最初から決めつけるのではなく、目の前に現れた人を信頼し、関係を育んでいく姿勢が大切ではないだろうか。と、そんな風に思った。
それに、そもそもそれって結局は私自身が「分かろうともしていなかった」んじゃないか!と。
瞬時に人をジャッジし『こっちか、あっちか』と振り分けてきたこの癖というのは、自分の心を守り、相手を尊重するために必要なものだったとも思う。けれど、そんな時期はもう既に終わっているのだ。
ここからの私は、自分のことも相手のことも大切に尊重しながらも歩み寄り、関係を育んでいくことに挑戦しようとしている気がする。
「どうせ分かってもらえない。」
「分かろうともしていない。」世界から、
分かり合おうと心を開き心を尽くす世界へ。
きっとそこには、「分かってもらえたかどうか」を超えた何かが、ある気がする。_そんな気配を感じ、自分がそうなっていけると信じることに決めた。
#私はわたしとわたしする / 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟢𝟨𝟤𝟤
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