「どこまでいっても
感覚を言葉にし切ることはできない。」
「分かりやすくするほどダサくなる。」
そんな言葉を目にしては、勝手に否定されたような気持ちになって、勝手に傷ついてきた。
私は言葉が好きで、自分の感覚にピタリとフィットする言語表現をするのが好きだけど、それをするのは良くないって言われているように感じて、すごく悲しかった。
もちろんこれは私の中の傷つき由来のものだけど、言葉にすることや言語化することへの罪悪感や、ダサい自分に対する恥ずかしさ、自己否定感をずっと感じていました。勝手にね。
𓃥
感じているものを絵にすること、
感じているものを音にすること、
感じているものを造形すること、
感じているものを身体で表現すること、
なぜ言葉にすることだけは駄目なのか。なぜ、それだけは別枠なのか。私はずーっと、それが分からなかった。自分がなぜそこに傷ついてしまうのかが、ずっと、わからなかった。
けれど自分の言葉が、『 言葉という非言語 』だったことに気づいて視界が開けた気がした。そして少し…なんとなく、分かった気がした。
私は自分は情報を扱っているのだとばかり思っていたから、伝わるように分かりやすく説明したかった。そして、そうできない自分にも劣等感や葛藤を感じていた。
けれど、私の言葉は情報伝達というより、表現だったのだなぁ…と、ようやく分かった。言語でありながら、非言語だったのだと、ようやくわかった。
それが分かった時、言葉というものや言語というもの、そしてそれを扱おうとする人々の美しさを感じて、たまらなく愛おしい気持ちになった。
𓃦
数式は美しい。そして、表現としての言葉も美しい。そして、情報伝達としての言語化もまた非常に美しい。
美しくない言葉なんてなかった。美しくない言語表現など、なかった。ダサささなどなかった。あるとしたら、それはただのその人の好みだった。
内に感じたものを、湧くものを、大量に拡がった情報や膨大なデータを、その人が言葉という素材を使って編んだり奏でたりくっつけたり削ったり並べたり…
そうしながら見える形へと生み出されてきた全ての表現が尊くて、そして美しかった。愛おしかった。そこに優劣などそもそもなかった。
𓃢
私が傷ついてしまうのは、私自身がそこに優劣を持っていたからだった。表現や芸術の方が尊い。美しい。分かりやすさを求めるのはダサいんだと、私自身がそう信じていた。そういう意見に無自覚に賛同していた。
そのダサい表現をしようとしていたのだから、それは傷つくに決まっている。でも、違うかった。すべてが言語表現であり、すべて美しかった。
あるのは好みとクオリティ。どのような言語表現を自分が好むのかという単なる好みと、自身の言語表現にどこまで向き合ったかというクオリティ。
このクオリティもまた、見る側の好みによるだけで、良し悪しなどきっとない。拙く荒削りな感じが好きな人もいれば、細部にまでこだわり感じ抜いたものが好きな人もいる。ただそれだけのことだった。
自分の中にあったわだかまりが、ほわんっと消えて、身体の力が抜けてほっとした。自分の中の芯となるもの、美しさ、にまた一つ出会えた気がします。
#私はわたしとわたしする / 𝟤𝟢𝟤𝟦𝟢𝟩𝟢𝟧

ことごと紡ぐ、

