昨年9月からの2学期の期間、息子の不登校を機に、前々から気になっていた発達特性について腹を括って向き合おうとしてきた。
この3学期の期間は、発達について更に踏み込んでいこうと思っている。
そんな話を母と話していた時、「発達障害にしなくてもいいんじゃないの?」と母が言った。
言いたいことはよくわかる。わざわざそんな風に決めつけなくてもいいのではないか?決めつけたら余計にそうなってしまうのではないか?もっと自然な流れに沿っていってもいいのではないか?
そういう母の柔らかさや、曖昧さを許容できるゆるやかさは、とっても素敵だ。
けれど、きっと、私のやりたいことの本質が伝わっていないのだなぁ…と感じた。
私は発達障害というものに当てはめたいのではなく、子ども達や自分のことを知り、理解を深めるために活用したいのだ。
なにが君の幸せ?
なにをして喜ぶ?
わからないまま終わる、
そんなのは嫌だ。
私には、アンパンマンマーチの歌詞のようなものが根っこにずーっとある。
私は知りたいのだ。深く、細かく、知りたい。どこまで行っても理解し切ることなんてできないけれど、だからってそれをもう放棄したくないのだ。
理解し切ることなんてできないからこそ、できる限りの範囲は知ろうとしたい。理解しようとしたい。手を伸ばし続けたい。
これは私の質だろう。感知したものをしっかりと感じ取りたいという私の質。
目の前にいる人を、この世界に生きる人々を、この社会や世界の構造を、知りたい。理解したい。という…それはもう私の趣味なのだ。笑
発達特性に限らず、カテゴリや何らかの名称(HSPだとか、内向型だとか、アダルトチルドレンだとか、何らかの病名だったり、気質などなど…)というものは、その人を構成するたった一つの一部にすぎない。私たちが20面体だとしたら、その1面にすぎないのだ。
だから、その1面をまるで全体だと思ってしまうのは違うけれど、多くの場合、私も含めて人々はそうなってしまうのだと思う。そしてその1面を自分自身なのだと握りしめて執着してしまう。それは確かに不健全だ。
けれど、その1面を深く知ることは、全体を知ることにものすごく役立つ。
だから、あくまでも一部・一面であり、全体ではない。という大前提のもとに、なんらかのラベリングをするのは全くもって不健全にはならない。むしろ、自己理解でしかないと思っている。
ラベリングによって、自分自身のイメージを固定化させてしまう苦しさや不健全さを、私はこれまで沢山経験してきた。
無自覚に貼り付け、鎖のようになったラベルを一つ一つ剥がしていく作業を何度も何度も繰り返してきた。
そうして思うのは、ラベリング自体は悪いものではなく、自己理解に非常に役立つ。
でも、ラベリングしていることに対して無自覚だったり、ラベリングしたことを忘れてしまって、剥がさないことによって生じる固定化とズレに不健全が帯びてきて、結果、苦しくなる。
自己理解のためにラベルを活用し、
ある程度知れたらラベルを剥がす。
やっぱりこれが大切だと思うのだ。それはまさに、【守破離】そのもの。自分はこのラベルに当てはまるかもしれないと気づきその型を学ぶこと。そして、その型を微調整しながら自分独自の型にしていくこと。そして、ちゃんとその型から卒業すること。
ここを大切にしていれば、ラベリングや、なんらかの名称は怖いものではなくなり、活用できるものになる。
…と、いうことを母に熱弁し、その熱さに2人して大笑いした。
母も私も、同じ方向を向いているのだ。行こうとするルートが違うだけで、向いている方向は同じ。
こういうことって、よくあるなぁと思う。そこで対立関係になってしまうのは、もったいない。だって、ただの誤解だから。
100%理解してもらうことは無理でも、理解してもらおうとすることも諦めたくない。と、最近少しずつ思えるようになってきた。
あなたと私は違う。でも、同じ所もある。
私はあなたの敵ではない。責めてもいない。
けれど、確かにこういう違いはあるよね。
誰かを理解することも、自分を理解してもらうことも完全に放棄して生きてきた人生だと思う。
けれど、40歳を超えてここに取り組もうとしている自分を感じている。とてもとても面白いなぁ…と思う。
わたし が 私にどんな景色を見せ、どんな所に連れて行こうとしているのか、今年もとっても愉しみだ。
#私はわたしとわたしする

/ 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟢𝟣𝟢𝟫
ことごと紡ぐ、

