「みんなちがって、みんないい」
この言葉は、金子みすゞさんの『私と小鳥と鈴と』という詩の中に出てくるもの。
多様性が謳われる昨今、特にこの言葉が用いられるようになった気がします。
金子みすゞさんが、どのような意図でこの詩を綴ったのか…分かりませんが、私の中で少しだけ引っかかることがある。
それは、「みんな違ってみんないいのだから、人と比べなくていいんだよ。」といった世間の雰囲気。
_というのも、私は、「みんなちがって、みんないい」と、心の底から言えるようになるのは、とことん比べた先にあるような気が、しているからなのです。
あの詩を読んでいると、みすゞさんもそう言ってくれているように…私には、感じるのです。(あくまで私の勝手な解釈にすぎません。笑)
ちゃんと納得して、
「ちがって、いい」と言いたい。
比べることで違いを知って、
その違いを認めて、受け入れていく。
そうした歩みの先に、「そうか…本当にみんな違って、みんないいのだなぁ。」という感覚が伴った、理解がある気がするのです。それはある種の諦め(明らめ)とも呼べるのかもしれません。
ちゃんと納得がいっていない状態でこの言葉を用いることは、自分の中にある不安や不満、葛藤の気持ちを無理に押し込めてしまう気がする。
納得がいっていないのに正論を突きつけられ、聞き分けなさいと言われているような…言いたかった言葉を飲み込んで身体がギュッと固くなる感じがするのです。
とは言え、「比べる」って、
なんだか苦しくないかい??
私にとって『比べる』ことは、
違いを知ること。
比べることでしか、違いを知ることはできないのかもしれない。…とさえ思うほど、比べるって本来とてもフラットで尊いことだと思っています。
けれどこの、『比べる』『比較する』という言葉には、優劣思考がべったりとくっついている場合が多く、『違いを知るために比べる』という本来の使い方がしにくくなっているのも事実だと思います。
本当は、違いを知るために比べていたのに、いつしか、どちらが優れていて劣っているのか?勝ちか負けか?上か下か?_そんな風になってしまう。
それでは確かに比べることは、とても気分が悪く苦しいものになってしまいます。
優劣思考からではなく、
違いを知るために比べる。
だから、『比べる』という言葉に「優劣思考」がベッタリと付着している。ということを知っておく必要があるな、と思う。
「比べようとすると優劣思考が出やすいのだ。」と自覚しておく必要があると思っています。
優劣思考からではなく、違いを知るために比べることができたら、それぞれの違いをもっと気軽に認められるような気がします。
そうして、自分の違いを、人の違いを、みんなの違いを認めていくごとに、「みんなちがって、みんないい」という言葉が腑に落ちて、本心からそう言える状態になっていくのではないでしょうか。
小鳥は飛べる。私は走れる。
鈴はきれいな音を出す。
私はたくさんの唄を知っている。
みんなちがうものを持っている。
みんなちがって、みんないい。
#ミクロから見た宇宙研究 / 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟣𝟢𝟢𝟤

ことごと紡ぐ、




