娘の発達検査を経て、主治医の先生が「かなり不安が強いので漢方を飲んでみてはどうか。」__と提案してくださった。
それを聞いた時、「いや…お薬はまだ…」と、つい、言ってしまった。先生曰く、
「お母さんが答えた検査ではそこまで不安の数値は高くないけれど、娘さん本人が答えた検査では数値がとても高い。
お母さんが思っている以上に娘さんの不安は強いので、何か対策を取ってあげる方がいいと思います。」__と。
「感覚の過敏さもあるので飲めるか分からないから、とりあえずチャレンジだけしてみてはどうか。」と言ってもらい、漢方を処方してもらうことになった。
自分なりに、娘の不安の強さを理解しているつもりだった私はショックだったし、娘に対してとても申し訳ない気持ちになった。
不安とか悲しみとか、痛みもそうだけど、人の感情や感覚というのは目に見えない。
私自身、子どもの頃から「大げさ」だとよく言われてきて、悲しかった記憶がある。
「自分は大げさらしいから。」と、我慢することもよくあった。「これは大げさなのではないか?」と、自分の感覚を疑うことも、しょっちゅうだ。
整骨院でも、出産の時にも、「痛がりすぎ。」と言われて、歯を食いしばって痛みに耐えようとしたこともあった。
だから娘の不安に対しても、「どこまでいっても、どれくらい不安なのかは分からないけれど、あなたが不安だと感じていることは理解したい。」という気持ちで、ずっとやってきた。
けれど結局、全然理解できていなかったのかと絶望して、「もう嫌!こんな自分、嫌い!どうせ私なんか……」って、拗ねたくなった。笑
でも、思い返してみると、確かに私は寄り添えていなかったなぁと思う。
私はすぐに解決したくなるのだ。寄り添ったり、共感したり、うんうんと話を聞いたり…というのが、すこぶる苦手だ。すぐに思考が、解決できないか?どうにかできないか?という方向へいってしまう。
「女性はアドバイスを求めていない。ただ聞いて欲しいだけ。」と、よく聞くけれど、私はこの辺りがほとんどない。
聞いてもらうだけじゃなくて、アドバイスして欲しいし、どうにかしたくなる。そうでないなら、話す必要がない。__くらいに思っているなぁ…と。笑
でも、どっちが良い悪いではなく、ただの違いなのだと思う。
私は寄り添うことが上手くできない。でも、視点を変えたり、工夫したり、解決策を考えたりすることはできる。それが、私にとっての愛情表現なのだと思う。
寄り添ってほしい娘には申し訳ないけれど、どこまで寄り添えるか自信はない。
私にできるのは、私以外に娘に寄り添ってくれる大人を見つけることだと思う。主治医の先生はその内の一人だなぁ…と感じた。
できないことを克服することも大切だけど、工夫することの方が、私にはしっくりくる。
「寄り添えない私」を責めるのはやめよう。
だって、私にとっては寄り添うことは苦しいことだから。寄り添えないんじゃなくて、寄り添わないのかもしれない。
というか、寄り添えていないのではなく、〝寄り添い方の種類〟が違うだけなのかもしれない。
そうだとするなら、「寄り添えない私」ではなく、「寄り添えないから娘が愛情不足になるんだ。」という思い込み…そっちだなと思う。
私が寄り添えなくたって、娘は愛情不足になんてならない。いや……私の寄り添い方でも娘に愛情は伝わる。
「うん。この世界線だな。」と、33日分の抑肝散を握りしめて帰った。
#私はわたしとわたしする

/ 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟢𝟦𝟣𝟫
ことごと紡ぐ、

