「どうしよう。どうしたらいいんだろう。」は、「こうしたい。」がわたしの中にある、サイン。
外にある正解ではなく、
内にあるわたしの答えを。
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子ども達のこと、どうしたらいいんだろう。
そんな思いで頭がいっぱいになっていた2月のある日、ノートと向き合っていたらふと、そんな言葉が浮かんだ。
「どうしよう」は「こうしたい」があるサイン。…だとしたら、わたしは子ども達のことを、どうしたいと思っているんだろう?
わたしの「こうしたい」って、なんなんだろう?そう意識を向けてみて、しばらく__
わたしは子ども達との関わりを愉しみたい。
わたしの愉しみとは、息子とハイキングに行ったり娘とクッキーを作ること……ではなかった。ノートにそう書いてみて、全然わくわくしていないことに気がついた。
わたしの愉しみとは、彼らの内側にある世界やシステムに触れること。そうして日々、手応えを感じながら彼らと関わりたいのだ。(その結果、ハイキングやクッキー作りに辿り着くのは、もちろん大歓迎。)
外へ外へと情報や正解を求めている内に、知らぬ間に、自らが勝手に作り出した〝お母さん〟というイメージの中にはまり込んでいた。
どこか無自覚で、〝お母さん〟という役目もろくに果たせていないくせに、自分の愉しみを求めちゃいけないような気がしていた。
けれど、私はそういった〝お母さん〟として彼らと関わりたいのではない。〝わたし〟として、彼らと関わっていたい。
私は〝わたし〟の感覚を使って、子ども達のことも探求し観測して研究したい。知りたい、触れたい、理解したい。そんな風に愛したい。
それは、お茶会に来て下さる方や友人や家族に対しての関わり方、愉しみ方そのものだった。
現時点での、わたしの「こうしたい。」は、これだった。「どうしよう…」というサイン(反応)が教えてくれた、わたしの、「こうしたい。」しばらくこれを、大切な道標にしていこうと思う。
#私はわたしとわたしする

/ 𝟤𝟢𝟤𝟨𝟢𝟤𝟤𝟥
ことごと紡ぐ、

