憧れを手放し本来の居場所に戻ろう。『わたし』という居場所に。⁡

私はずっと惨めな気持ちを抱えていた。私にはあれもない、これもない。何もない。あるのは要りもしない野暮ったくてダサい独特さだけだ。情けない。惨めで恥ずかしい。そんな気持ちをずっと抱えて生きてきた。

美容師の専門学校にいた、強くて逞しくて洗練された(ように見えていた)あの人たちのようになんて、まさかなれない。仲のよかった美大の友人たちのように繊細で、でも強くて美しい(ように見えていた)あの人たちのようにもなれない。

どっちにも入れない。どっちに入るにも私は条件を満たしていない。恥ずかしい。情けない。惨めだ。惨めだ…惨めだ…私なんて…私なんて。

って、私は被害者面をしていた。なんの努力もしていないくせに、カテゴリーに入れない。どこにも属せないような気分に勝手になって、まるで入れて貰えてないような気分になっていた。




ずっと、どこかに入りたかった。
ずっと、仲間に入れて欲しかった。
何かのカテゴリーに入りたかった。

別に虐められたわけでも、仲間はずれにされたわけでもないのに、この気持ちがずっとずーっとあった。

どこに入りたいとかも無いくせに。どこに入ってもなんか違う…とか文句言うくせに。どこにも入れて貰えない。そう言って被害者ぶって惨めぶっていれば、向き合わずに済んだんだ。

わたし、というものが、一体どういうカテゴリーや属性や名詞を〝含んでいる〟人間なのかを知っていくことから、逃げていられたんだなぁ。

そして、それと同時にカテゴライズされたものに相応しい自分になっていく努力からも逃げられたんだなぁ。あぁ、、イタタタタ…




そう気がついた時、初めて、こんなお喋りで暑苦しい画家/藝術家/アーティストがいてもいいんじゃない?むしろ、既にいるんじゃない?って思えた。

それは、怖がって避けてたくせにずーっと求めていた〝カテゴリーや仲間〟を必要としなくなってきたタイミングなのかもしれない。

あらゆるカテゴリーや属性や名詞は全て、わたしの中に含まれているものであって、私は〝わたし〟でしかないんだな、と、既存の名詞に寄せていく必要なんてないんだ(どうせ寄せられないのだし)と、やっと…わかってきた気がします。







〝あの人たち〟という基準がずっとあった。描く絵も、活動スタイルも、その人たちからどう思われるか…をずっと気にして恥ずかしかった。

自分の作品を言葉で説明する自分、お喋りが好きな自分、オンラインの世界が好きな自分、あらゆる私は、その基準からいつも漏れていた。そりゃそうだ。だって、私とあの人たちは違うんだもん。憧れてきたけれど、それもおしまい。だいすきは、大好きなままだけどね。

憧れの語源を調べていたら、平安時代では「本来の居場所を離れてさまよう」という意味だったらしいんだけど、ま さ に!笑


本来の居場所に戻ろう。
『わたし』という居場所に。



⁡iro and ∞ #紡ぐ日々

/ 𝟤𝟢𝟤𝟥𝟢𝟩𝟤𝟪


cotogoto tumugu


綿子 / iro and
iro and(イロアンド)という活動名で描いたり、書いたり、喋ったり。自然な暮らしを生活に取り入れる試行錯誤が好きで、暮らしを丸ごと愉しみたいと考えています。心の師匠は、花森安治。大好きなことは宇宙研究。
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