美しさ、ってなんだろう

数年前にk fleurs さんという植物のアトリエを訪れた時、お姉さんが何気ない会話の中で「徐々に水分が抜けてゆく姿もまた美しい。」と、言っていた。

それは恐らく〝枯れる〟という状況と同じなんだろうけど、〝徐々に水分が抜けてゆく〟という表現がとても素敵で、印象的で、それ以降私もそういう視点で植物を見るようになった。

その後に、わたし達人間は人間という独立した存在ではなく、自然の一部なのだと知ってから、お姉さんのこの言葉はますます私の中で大事なものとなっていった。




ここ最近〝成長と美しさ〟について時々ぼーっと思いを巡らせることがあるのだけれど、

人間社会では花が咲くことを一つの達成や成果として捉えることがよくある。花が咲くまでを成長する時期と呼び、花が咲いて達成し実が実って収穫時とし、その後は…衰退と呼んであまり重要視しないように見える。

これは美しさでも同じことで、若い頃や、ある年齢•期間を条件にして美しさの花盛りと呼ぶ。そして、それを超えたら老化や劣化と呼んだりする。

けれど、植物たちを見ていると、種から根が生え芽が出てぐんぐん伸びて葉を広げ、蕾を付けては花が咲き、花がしぼんで実や種がなり、どんどんと水分が抜けていき、土へと還っていく…そのすべてが成長なのだということがよく分かる。

きっと植物たちは花が散り、実を実らせたその後も命を放棄したりはしていない。土に還るその瞬間まで淡々と命を全うしている。それは人間社会でいう成長とはまた違うものかもしれないけれど… 私には〝成長〟なのだと見える。




美しさもそうだ。『美しいとはこういうものだ』という、好みとはまた違う、人間が勝手に定めた条件からはみ出たものは果たして本当に美しくないのだろうか?

お姉さんが教えてくれた、『徐々に水分が抜けてゆく姿もまた美しい。』私は、この美しさを捉えることができるようになるだろうか。それを捉えられる感性を取り戻すことができるだろうか。


…と、紫陽花を見てそう思う。

徐々に水分が抜けてゆくその美しい姿に見惚れながら、そうなりたいと、また強くそう思った。






𝗂𝗋𝗈 𝖺𝗇𝖽 ∞ #紡ぐ日々

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cotogoto tumugu


綿子 / iro and
iro and(イロアンド)という活動名で描いたり、書いたり、喋ったり。自然な暮らしを生活に取り入れる試行錯誤が好きで、暮らしを丸ごと愉しみたいと考えています。心の師匠は、花森安治。大好きなことは宇宙研究。
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