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孤独をどう愛していくことができるだろう。

私は時折、とてつもない孤独感に襲われることがある。誰とも分かり合えないような、誰にも理解されないような…そんな感覚に淋しくて堪らなくなる。

その淋しさを感じることを後回しにしていると、それが無価値観に転ずる。「私なんてどうせ誰にも必要とされてないんだ。」といった具合に拗れモードに入っていく。

これはとても自然なことなのではないかなぁと思う。自分(の感情)を無視するのだから、無視されているように感じるし、自分という存在にさえ背を向けられたらそういう反応は起きてくるのではないかと。


孤独感は多くの方が感じているものではないかと思っているのだけれど、取り分けその色が濃い…というか深い人がいるなと感じる。

恐らく、この〝孤独〟というものを体験を通して知っている人なんだろうなと思っていて、自分に深く潜る人ほど、孤独の色は深いのではないかと考えています。

雨野次薬さんという方の『孤独に生きること』というnoteに、

繋がっているはずなのに繋がりきれないところに苦しい孤独がある。孤独は人とは共有できないものだったり、あるいは人と自分とは違うという認識から生まれるものだ。

それはつまり人と合わせようとしてもどうしても合わせられないものだから自分にしか無いものだ。どんな親しい人とも共有できないもの。つまり孤独を感じるものが個性というわけだ。

個性はその人にしか宿らない唯一ものだから、人は必ず最後には孤独になることを避けられないという宿命にある。個性を捨てれば孤独からは解放されるかもしれないけれど、死んでいるのと同じだろう。

孤独と向き合うことで苦しみながらようやく自分を知ることに繋がり、自分を知れば生き方を決められるわけだから、孤独を消そうとすることはつまり自分と向き合うことからの逃避にもなってしまう。

漫然と生きていれば苦しむことはないけれど、真剣に生きようとする人は苦しみからは逃れられない。真剣になればなるほど苦しみは強くなるものだ。

孤独に生きること

と書いてあって、ものすごく共感した。

私が深い孤独の色を感じる人は、自分というものに向き合っているイメージがある。〝たった一人の自分という個の存在の色〟に真剣に、不器用に、誠実に向き合っているイメージがある。

きっと、他人とは共有するのが難しい、できない部分に多く触れているのだろうなと思うし、私はその、他人とは共有することができないという事実を感じる度に、絶望にも似た孤独感に襲われている気がする。

この孤独感は、淋しいからと言って安易に人と結び付いてもかえって色が濃くなる。みんなといて一人でなくても独りだし、この孤独感を紛らわすことはなかなかできないし、紛らわそう=無視するとかえって濃くなるから厄介。



じゃあ、どうするかなぁ…と考えると、まずはこの『孤独』に対する認識の変換が有効そうだなと思う。

私は『孤独』に対して「私を飲み込んで絶望へと突き落とすものであり排除したいもの。」といった定義づけをしていたように思う。これを「自分の中の本質や美学(個性)に触れた時に生じる感覚であり、抱きしめていくもの。」だと再定義してみたらどうだろう。

そう言えば岡本太郎さんは「孤独に胸を張れ」「孤独だからこそ全人類と結びついて宇宙にひ向かって開いていく。群れるな。孤独を選べ!」と言っている。

以前は太郎さんのこの言葉が、冷たくも厳しい励ましの言葉に感じていたのだけれど、再定義すると、太郎さんのこの言葉達がぐっと温かく毛布のような励ましになったように感じる。「孤独を愛する。」とはこういうことなのかもしれない。


また、人と共有できない部分を自分と共有していく、宇宙と共有していくイメージを持つ。というのはやはり有効な気がする。

私が〝わたし〟に潜って自分を知り、自己理解を深めること。それをこうして文章や絵にすることで、その理解を表現・証明する。そして、これを宇宙に向けて共有するイメージ。

以前からこのイメージはあったのだけど、どうしてもそこで〝他者〟と分かち合いたい欲が出て拗れてしまっていたのだけれど、少しずつそこも出来るようになっていく気がする。

淋しいという感情は、これからもその都度感じてあげることが必要なんだろう。でも感情=わたしでもないし、孤独=淋しいでもないから、それとはしっかり分けて、「孤独」を愛していけたらいいなと思う。



(おわり)



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